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2007/12/23
Chaosmos'07 さびしさと向きあって
心の闇に向き合う5者
人は自分の最期を知らないからこそ平常でいられる。いつか必ず死ぬとわかっていても、自分の寿命を知り、刻一刻と近づいていく段階で、正気を失うだろう。その日までめいっぱい生きようと前向きになることなど、私には無理だと思っていた。
石田徹也「クラゲの夢」1997年
出品作家は若くして他界した4作家と闘病中の作家が1人。制作した時代にもズレがある。おそらく彼らの作品がこうして一緒に並べられることはこれまでなかったはず。絵画と版画だけの構成で、同館の従来のグループショーとは違っておとなしい雰囲気。今回例外的に物故作家を取り上げているということだが、それはこのラインナップが必需だったからだ。
石田徹也は、他界後にTVで紹介されて反響を呼び、今や市場で注目の作家。あまりのヒートアップに、山田かまち現象の前兆らしきものを感じる。作品は社会風刺そのもので、自画像にも受けとれる人物が寂しげな表情で描かれている。テーマの発想が的確で共感が持てる。作風に変化が現れてきた時の死が悔やまれてならない。
正木隆は、吸い込まれそうな黒い画面に、白で浮かびあがるように日用品が描かれている。モチーフが作家にとって特別な存在であることの強調か。モノが空間にポツンとある状態から、徐々に特定の場所が現れてくるようになってきた。プールで孤独にたたずむ人物の作品は絶筆。絶望の果ての自殺はやりきれない思いにさせる。
正木隆「from DRIVING to DIVING 03-6」2003年
菊池伶司は、まだ銅版画の技法書がなかった時代、試行錯誤で方法をあみだした。1年半という短期間で64点もの銅版画を完成。不治の病を自覚し、かなりストイックに制作した様子がうかがえる。繊細な描線が作者の細やかな神経を写し取ったかのような印象を受ける。
田畑あきら子も、病と闘いながら制作した。アメリカ抽象表現主義の影響を受け、身体の動きを主体にした方法で。作品のフィニッシュに白を使っていたという。多色を使いながら、画材のためか時間の仕業かわからないが、彩度が足りない気がした。不安を駆り立てるのはそのためだろうか。
現在も闘病中である成瀬麻紀子。水彩やパステルによる一見メルヘンチックな描写に見えるが、各作品のタイトルを見て、そんな穏やかな世界ではないと気づかされる。透明感のある明るい画面は、闇を色や形に浄化させて、たどり着いた光景なのである。
成瀬麻紀子「蝶が見えた」2005年
「厭世観が表れている3階。生きたいという願望が伝わってくる4階、という構成になっています。」たまたま居合わせたギャラリートークはこのようにはじまった。解説を聞きながら会場を1周したが、担当学芸員の説明しすぎないトークが良かった。石田と正木の作品は3階の同一空間にあった。現実に後ろ向きで、自己の内に籠もっていった2者の表現。4階の入り口に、田畑が病床で描いたというドローイング。そして菊池の部屋は版画とじっくり向き合える細長い展示室。田畑のタブローは大きな空間にゆったりとかかっていた。最後は成瀬。今にも空気に溶けてしまいそうな水彩画は、心にすっと染み入り、安堵感をもたらす。
心の闇、厭世観、不安…そんなイメージの作品が並ぶと、反動で出口(希望)を求めたくなるが、そうならなかったのはどこかしら心を繋げられる作品であったからだろう。やりきれない思いを抱えていた作家、命を絶つ決意をした作家、自らの寿命を受け入れた作家、闘病中の作家。心や身体の痛みをもとに生み出された作品は、根深く、はかなく、力強い。
Chaosmos'07 さびしさと向きあって
佐倉市立美術館
2007年11月16(金)〜12月24日(月)
月休、ただし祝日の場合は翌日
10:00〜18:00
一般600円、大学・高校生400円、中学生以下無料
TEL 043-485-7851
千葉県佐倉市新町210
words:斉藤博美
2007-12-23 at 05:57 午後 | Permalink
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