« よりアピールする笑いへ— 崔廣宇個展 | メイン | アメリカン・フォーク・アート美術館「The Great Cover-up: American Rugs on Beds, Tables, and Floors」 »

2007/09/13

神林 優 展

JR両国駅から歩いて10分ほどの場所に、ART TRACE GALLERYはある。アーティストたちの自主運営により、ほぼ1ヶ月のあいだ、ひとりの作家の個展が継続されるという形式をもつそのスペースで現在、神林優の個展が開催されている。
02これまで神林は、ほぼモノクロ ームに統一された写真を制作してきた。長時間露光によって撮られたそれらは極めて厳格なミニマリズムの体裁をもったものであり、そうした作品の底辺に流れていたのは、いかにして時間を可視化、あるいは触知可能なものとするかという命題だったといえるだろう。

© Yu Kanbayashi

したがって作品の外面的な抽象性は、その作品が内実とするものからもたらされるものでもあった。しかし今回の展示で、作家は荒い粒子をもったカラー写真を展示している。正確にいえばそれらの写真は、作家のプリントにはなるが、1枚の空を被写体としたものを除いて、作家の手によって撮影されたものではない。ニューヨーク、パリ、アイオワ、バルセロナ、東京といった都市で、作家がその都市に住む友人たちに依頼し、ある日(2007年7月29日)の正午前後に撮られたものだという。そのフィルムが空輸され、プリントされたというわけだ。

01

はたしてそれを戦略的な主体性の放棄とみるべきだろうか。おそらくそうではないだろう。むしろこの作家は最初から、見られることもなければ触れることもできない「時間」というものを問題とすることによって、「時間」を所有することの不可能性を自らに厳しく課してきたのだ。有名な哲学者も言っているけれど、私たちが時間を前提にして生きるわけではない、むしろ私たちの方こそ時間の前提なのだ。その意味で神林は、時間の絶対的な外在性を身に帯びることを強く自覚してきたのだといえるだろう。すると、今回の作品で作家が明確にしようとしつつあるものも鮮明になってくるのではないだろうか。重要なのはそれらが他者によって撮られたという事実だけにあるのではなく、むしろこの写真が明らかにしているのは、その各都市間の「距離」であり、またその「距離」とは、複数の場所で撮られた「正午」という時がもたらすある種の痛みの感覚なのだ。

04

「正午」には光はもっとも均等に行き渡る。それは太陽がもっとも高く位置するという、物理的にも確かな明証性をもった現象なのだといえるだろう。けれども複数の都市の正午における写真はもちろん同時に撮られたわけではない。地球は自転するのだから、それは同時ではありえない。つまり「正午」という時が指し示すのは、絶対性と複数性との共存だった。そしてその複数性と絶対性とが一時に去来する「正午」という事象によってはじめて、各都市間で撮影された写真は複数の「距離」をもちえるのである。それゆえこの場合、作家がわざわざデジタルデータによるメールのやり取りではなく、フィルムを空路で輸送させプリントすることで明らかにしようとした「距離」とは、「正午」という時間のもつ極めて曖昧な性格を定点として現象してきたものでもあった。

そして実際の作品を目にしたとき顕著になるのは、正午という一瞬間がどのような都市であれ、強制的に均質で起伏の乏しい、一種の貧しさを帯びさせるということである。つまり神林の写真は豊穣であることよりも、むしろそのような貧しさに積極性を覚えることによって一種の物理的な力をもつのだが、いくつかの写真は複数のパネルに分割され、鑑賞者はそれをひとつのイメージに回収してゆくことさえできない。しかもそれらは原寸大にプリントされていることで、現実的な〈窓〉としての機能を持ちつつ(実際、作家による前述の1枚を除き、すべて窓越しの光景である)、しかし分割されたパネルによって、その実現実感を失調してゆくような感覚だけが残される。そこにあるのは、徹底したアンチヒューマニズムともとれるような、つまり私たちを突き放すような光なのだろう。

神林 優 展

ART TRACE GALLERY

2007年 9月2日(日)~29日(土)

11時~19時(金曜は21時まで)

月休

Tel: 050-8004-6019

東京都墨田区緑2-13-19 秋山ビル1F

JR両国駅東口から徒歩9分。都営大江戸線両国駅A5出口から徒歩5分

words: 沢山遼

2007-09-13 at 03:07 午後 in 展覧会レポート | Permalink

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
https://www.typepad.com/services/trackback/6a014e885bb6e5970d014e88e73d11970d

Listed below are links to weblogs that reference 神林 優 展:

コメント

『「正午」には光はもっとも均等に行き渡る。それは太陽がもっとも高く位置するという、物理的にも確かな明証性をもった現象なのだといえるだろう。』

と書いてあって、次に

『「正午」という時間のもつ極めて曖昧な性格を定点として現象してきたものでもあった。』

???

またその「距離」とは、複数の場所で撮られた「正午」という時がもたらすある種の痛みの感覚なのだ。

えええ?

なぜ?なぜなぜ??

念のため2度読みましたが、何が言いたいのか全然わからない。。。

投稿情報: とおりすがり | 2007/09/07 14:56:59

ご指摘ありがとうございます。たしかにすこし分かりにくかったかもしれません。
ちょっと補足しておきます。ひとつの場所で考えてみたとき、「正午」っていう時刻は日に一度しかありませんよね。でも地球全体で考えてみたときに、ひとつひとつの都市にその都市の数だけ「正午」っていう時間はやってきます。つまりひとつの場所に限定すれば、それは絶対的なものなのに、地球規模で考えれば、いくつもの「正午」があるということです。「曖昧な性格」という言葉を使ったのは、その矛盾について言いたかったのでした。それに関連していうと、「痛み」とは、絶対的なものであり、でも同時に複数であるというその矛盾に「正午」という時間が引き裂かれているという意味での「痛み」です。それはもちろん、作品のなかでそれを引き受けようとする作家が持つ「痛み」だと言えるのかもしれません。いずれにせよ説明不足な文章でした。

投稿情報: 沢山 | 2007/09/07 18:16:03