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2004/02/21

小島郁子展

「透明な、聡明な陶」


art201_01_1「水に、なる」2004年(以下すべて)


■2000年に、小島郁子の陶の作品を見たときその作品が放つ清廉とした空気にドキドキした。私は、自然素材を使った有機的な作品のなかには、自然の良さに頼っているものも多いように感じている。もちろんそこにも人間のコントロールし得ない領域、あるいは懐が広いからこそ力量が試される、といった格闘があることは多少知っているつもりだ。けれど小島の作品についていつか書きたいと思っていたのは、陶とか自然といったことだけでは語れない別の何かをもっている気がしたからだった。

■今回の展覧会タイトルは"水に、なる"。彼女は青森に住んでいるが、土はどこの土でもこだわりはなく、白くて荒いものであれば彼女にとっては問題ないそうだ。本焼きを2回し、焼き上がった後研磨し、上に水が溜まっているような水色の部分は、鉄の入った透明の普通の釉薬が使われている。羽のようなかたち、階段といった、その先の空気につながっていくようなイメージ。その形態がどうというよりも、作品と見る者の間の空気が動く。それが彼女の力だと思う。

■「田んぼの水が風になびく、水たまり、おいしい水が湧くところ、雪から融ける滴、川の流れ、霧と冷たい空気、吹雪が舞う、雨の滴。いろいろな水のありようを見ていると、水はこころのありようと似ているなあ、と感じます」とは作家のコメント。水はいつもたたえられ、たゆたうばかりではなく、初雪のように、現れては消えてしまう存在でもある。

■雨が降ったあと、葉っぱの小さな窪みや公園のベンチに水が溜まり、わずかな湖ができるとき、水はその色を鮮やかにする。小さな心の波立ちを、水は鏡になって映そうとしているけれど、人は次第にそれを見ようとしなくなるのかもしれない。うれしいことばかりではない。J POPは軽々しく人を励ますけれど、自分のマイナスな感情の発生源を見つめるようなことは歌われない。他者を自分の期待の眼で見て傷つくような、手前の感情に私はまだまだ翻弄される。

■小島の作品は、凛としていて優しい。別段人に媚びるわけでもないし、癒しを押し付けたりもしない。人は自然に慰めを求めるけれど、自然はただそこにあるだけだということを知っているんだろう。温かみや朴訥さ、あるいは逆に洗練された陶はよく見るけれど、小島の陶は透明なんだと思う。前回の方がより強くその透明さ/聡明さを感じたのだけれど、今回は、作品数が多くて関係性が強すぎたのかもしれない。いや、でも当たっているかわからないな。こちらの眼が曇っているかもしれないし。

■美術を見て、そのように生きたいと願うのに、どうしてすぐそのように生きられなくなっちゃうんだろう。でもそのことを思い出させるために、美術を見にいくのかもしれない。


小島郁子展 "水に、なる"
2004年2月21日(土)〜3月7日(日)
ギャラリー人
東京都武蔵野市吉祥寺本町2-26-12クノス吉祥寺2F
(吉祥寺駅北口より東急左脇を直進、駐車場で左折)
12:00〜20:00(最終日17:00まで)
水曜休
TEL 0422-23-0010

words:白坂ゆり


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2004-02-21 at 01:35 午後 in 展覧会レポート | Permalink

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