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2003/12/07

小木曽瑞枝展

「希望のほし」


art174_01_1「Untitled」1996年


■数年前、とある片田舎の染工場が火災に遭った。自分達の手でどうにか工場を再建し、再出発のささやかなパーティーを開いたとき、参加者から、千坪ある敷地に植樹するための苗木を買う寄付金を募った。再建費そのものへの寄付でも快く集まっただろうに、だ。しかもそのオーナーは、工場が森に囲まれる景色までは見届けることはできない年齢だった。芸術の仕事も、この樹を植えるようなものかもしれない。

■小木曽の展示は、和紙にオイルパステルと鉛筆でぐりぐりと、小さなまるをたくさん描いた絵からはじまる。それは、描く原動力である、表現の喜びを確認する作品だった。しかしその後、人に見せることを考えたとき「それは、取り立てて私の役割ではない」と気づく。自身の視点を絡めるために絵画について再び考え、綿布にアクリル絵具で描く方法を選んでいく。

■モチーフには、中心ごとからはずれた些細なもの、収まりどころのないものが拾い上げられる。たとえば、コーヒーをこぼしてテーブルクロスに染みができたときのような、小さなざわめき。ハプニングによって、それまで見失われていたものたちが存在感を示したとき、どのように感覚が動いたか、その“状況"を描きたい。後から、もの以外のことが思い出される感覚を形にする。

■資本主義社会の枠組みのなかで、私達は、日常生活においても、合理的、効率的な判断を意識せずに行っている。ところが、そこから抜け落ちたことに大事なことも多い。見えないものを想像する力は、生きてゆくための体力のひとつとなる。

■しんと休んでいる「夜の蔦」と淡い光のなかで養分を吸収しているような「蔦」。その間合いと、循環する時間。でも、植物は夜の闇でこそ活動しているようにも思えるので、「夜の蔦」もなにかをはらんだ状態なのかもしれない。「霞」では、なにかが通り抜け、はずむものたちが重力から解放されているようにも見える。いちばん最後に待ち受ける黄色い絵は、近付くと、隠れているものが見えてくる。

■形にする過程での足し算、引き算は、感覚が決め手。そのため、常に自分の感覚に問いかける。以前にそぎ落としたものを、もう一度なぜそぎ落としたのか振り返り、なにが変化したのか、継続すべきことは置き忘れてきていないか、確認するという。展覧会も、ファイルとしてアーカイブすることも“問い正す"作業となる。主観だからこそ、客観的な眼が必要になるが、そこにも決まった物差しはない。作家性とは、独自の視点=主観に終わらない。つくったものを突き放して見たときの、感覚の研ぎすまされ方が要になる。

■シンプルで楽しい絵だが、ここに至るのはそう簡単なことではないだろう。でも、その過程の重さでは見せず、良質のユーモアもある。本当に幸福を感受できる人とは、悲しみや怒りやあきらめや孤独を知る人だ。絵もそんなところがある。小木曽の絵は、希望をもたらす。

project N 12 小木曽瑞枝展
2003年12月7日(土)〜3月2日(日)
東京オペラシティアートギャラリー 4F コリドール
東京都新宿区西新宿3-20-2 
(京王新線初台駅東京オペラシティ3F)
12:00〜20:00(金・土曜〜21:00、入館は30分前まで)
月休
TEL.03-5353-0756

words:白坂ゆり

art174_01_2「瞼の中で」2002年


art174_01_3左:「夜の蔦」、右:「蔦」ともに2002年


art174_01_4「じっとしている」2002年


art174_01_5「霞」2002年


art174_01_6展示風景

2003-12-07 at 04:37 午後 in 展覧会レポート | Permalink

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