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2003/11/22
片山博文展
「誰の眺めか」
「Vectorscape-1503」
■地上デジタルテレビ放送がはじまった。人間のものを見る眼、つまり知覚認識はテクノロジーの影響に左右されやすい。どのような状態を習慣化するかで、ものごとの把握の仕方は違ってくる。以前、ハイビジョン放送をフラットテレビで見たとき、大物女優のアップに、こんなにクリアに見えなくてもいいなと思ったことがある。見えるに越した事はないが、見え過ぎちゃっても困る。
■片山博文の写真は、一見無機質などこにでもある風景かと思うが、近付いて見ると違和感がある。それは、エッジが効いているからかもしれない。つまり、見え過ぎるのである。大型カメラで写真に撮って、それをベースにしながら、コンピュータ上で、イラストレーターを使って、ウ゛ェクトル・データとして引き写しているのだそうだ。通常デジタル写真は、ピクセルに置き換えられて構造化されるが、図形を描くウ゛ェクトル・データで処理すれば出力装置の上限ということになり、行き過ぎるまで研ぎ澄まされる。
■しかし、壁や床の微細な凹凸柄など、写真では写し取れていた細かい質感は再現できず、均質になる。それも人間が、見ることにおいて違和感を引き起こす原因だ。できあがったものは、リアル・イラストレーションではない。写真とイラストの境界にあり、けれど写真であり、写真の概念を変えるものだ。
■もとを正せば、写真は複製であり、それをさらに置き換えても、つまり複製の複製である。果たして写真は、写真か。真実を写すものではないには違いない。
■片山がもうひとつ、ベンヤミンが書いた複製芸術のくだりを翻訳ソフトで日本語に置き換えたものを見せてくれた。それは日本語ともいいがたい文法や表記のおかしな誤訳だった。「複製」を「置き換え」として、「翻訳」で考えてみる。
■ふと、それは誰が見た光景かなと思う。翻訳の場合は、最初はベンヤミンが発した言葉だ。しかし、片山の写真は、片山が撮ってはいるけれど主観性がかなり薄い。また、写真家は写真に写り込んでいるものを「カメラが捉えた」などという。
■私自身も片山の写真を見ながら、例えば同じような風景を見たとして、自分がどこまで見えてどこまでが見えないか、どの見え方が正常で、どの見え方が異常なのか。だんだん不鮮明になってきた。平静としているのに(本人も穏やか)、ラディカルでびっくりする。
片山博文展「Vectorscapes」
2003年11月22日(土)〜12月13日(土)
art & river bank
東京都大田区田園調布1-55-20 #206
(多摩川駅より5分)
13:00〜19:00
月曜休
TEL.03-3721-9421
words:白坂ゆり
「Vectorscape-118」
「Vectorscape-1507」
「Vectorscape-127」
「Vectorscape-018」
右:「Vectorscape-0128」
左:「Vectorscape-0129」
2003-11-22 at 09:20 午前 in 展覧会レポート | Permalink
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昨日投稿したCLAMP展の横で、サイト・グラフィックス展が開催中です。若い世才を中心に十名のアーティストが作品を出品している。サイト・グラフィックスという言葉耳... [続きを読む]
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+午後、新宿のNEWTOPSにてアーティストの片山博文さん取材・インタビュー。東京などに住んでいると普段は見過ごしてしまうような都市の風景の断片を切り取る。これは写真ではなくイラストレーターでトレースされたものだと知ったときには、その技法自体に驚いてしまうが、また、それ以上にそこに表現された世界にぐっと引きつけられる何かがある。片山さんの驚くところで終わらないで、写真ではないところから生まれる表現を伝えたいという言葉が印象的だった。
http://www.art-yuran.jp/20... [続きを読む]
トラックバック送信日 2011/06/05 11:48:39