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2003/06/27
戦争とサラエボとナン・ゴールディン
サラエボ 1999年
撮影:小野博
■1999年の夏、私はボスニア=ヘルセコビナの首都サラエボにいた。旧市街地にあるスケートリンク場に飲み物を買いに行ったある日、"Contemporary Art"と書かれた垂れ幕が目に止まる。受付では、学生が数人ぼんやりタバコを吸いながら喋っていた。私はてっきりサラエボの美大生の展示だと思い、コーラとタバコを手に、気軽に展示場に入った。するといきなりクリスチャン・ボルタンスキーの作品が目に飛び込んできたのだ。他にも有名な作家の作品が所狭しと展示されていたが、ほとんど観客はいない。作品と、スケートリンク地下室の低い天井やチープなパーテーションとのバランスが悪く、作品が魅力的に見えない。また、サラエボの街をつい先ほどまで見ていた私にとって、現代美術作品よりサラエボの現実の方がよほど衝撃的であり、サラエボの風景に比べると現代美術はとても弱く見えた。しかも、どの作家もサラエボという場所を考慮した作品を出展しており、それがかえって空回りしているように思われた。
■足早に会場を回り、撮影に戻ろうとしたとき、出口近くの壁にナン・ゴールディンの写真を見つけた。私は足を止めて彼女の写真に見入り、特に「I'll be your Mirror」シリーズに心惹かれた。ニューヨークの片隅の暗くて狭い部屋の中で、家族ではない若者たちが肩を寄せあうように、モノポリーをしたり、愛しあったりしている。暴力を受けて傷ついた肉体のスナップショットをずっと見ていると、何故かセルビア軍にサラエボが完全封鎖されていた時のサラエボ市民のドキュメンタリーを見ているような気になり、ニューヨークとサラエボというまったく違う場の現実が一瞬リンクして見えた。そしてどちらも巨大な現実の恐怖に怯え、傷つき、小さな部屋の中で身を寄せあうようにひっそりと時間が過ぎるまで耐えることで、現実と戦っていたのだと強く感じた。
■会場から出て、弾痕だらけのサラエボの街を歩きながら、再びサラエボと彼女の写真について考えた。サラエボにおけるセルビア軍の武器による威圧感と、ニューヨークにおける「有名にならなければ」という威圧感とは、そのレベルは違えど、同じ暴力性を持っているのかもしれない。ニューヨークのあの部屋の中の人々は、その後、ある人は死に、ある人はいまだ同じ状態にある。唯一ナン・ゴールディンは、有名になることで現実の恐怖から解放され、生き残った。そして、サラエボで私の目の前を歩いている人々は、ナン・ゴールディンと同じ強度の暴力と戦って解放された人だと、彼女の写真を通じて想像することができ、解放されなかった人々の存在をも感じることができた。だから私は今でも、ナン・ゴールディンの写真を見ると、同時にサラエボの風景を思い出す。
words : 小野博
Bosnia and Herzegovina -27 June 2003 relies
ゲストリポーター: 小野博(写真家・映像作家)
1971年岡山生まれ.1999年コニカ写真奨励賞を受賞して50カ国を巡り「地球の線」を制作。現在アムステルダム在住。7/22-7/31 銀座・ガーディアン・ガーデンで個展を開催。晶文社ウェブサイトにて『犬は吠えるがキャラバンはすすむ』連載中。
2003-06-27 at 10:02 午後 in ワールド・レポート | Permalink
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コメント
アムステルダムで活動中の小野博さんから「ホームページつくりました」というお知らせをいただきました。海外在住の日本人作家はたくさんいますが、活躍していても読者まで情報が届くことがなかなかない。時々のぞいてみてください。
投稿情報: shirasaka | 2005/03/29 20:19:21
ワルサーP38がよかった・・・・・
投稿情報: ルパン3世 | 2005/12/17 22:17:57