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2002/10/04

旅譚展

「人生は旅、アートは…」


art166_01_1小山穂太郎「遠い砂漠の光と埃と」


■紀行文学は、「ウルルン滞在記」ほどのめり込めない。筆者が情景描写を試みているのはわかるのだが、旅先であいまみえていく臨場感は映像にはかなわない気がする。だとすると、文章にできることは逆に、旅の「遠さ」「行き着けなさ」なのではないだろうか。

■アートではどうだろう。芸大の油画研究企画展の幕開けには「ドキュメンタリーの彼方へ。旅とは、無意識にひかれて移動するささやかな事件である。」とあった。旅とはアートとも言い換えられそうだ。

■展覧会の企画者でもある小山穂太郎の、遠くきしむ記憶を旅するような写真作品。自転車に乗った男の人の姿など、光とほこりにまみえたようなモノクロ写真が、窓にたてかけられている。

■その前には、ゆりとやすこ(長谷川有里+今泉康子)のリビングルームのようなインスタレーション。昭和初期のモダンと70年代と現在が入り混じったような空間のなかで、ブラウン管には不可思議な金魚の映像が。階段を上がると、壁に船木美佳の映像プロジェクション。象や馬がしっぽをふると、どこかでなにかが起こるような、連鎖する物語を想像させる。

■横谷奈歩は、夏の改修工事前まで階上に存在したドアの写真を展示し、奥を想像させるインスタレーション。下に小さな扉を開け、映像も仕込んでいる。この夏彼女は、軍艦島やハンセン病患者の住む清瀬市などを訪ね、日常の奥にあるものについて、肌で感じてきたようだった。

■横湯久美は、2000年に85歳で亡くなった祖母とのコラボレーションとして撮りためた写真を、改訂して展示していた。祖母がいてこうした写真を発表するのと、いないのとでは自分にかかる重みが違うという。それでいて記憶は、まるで物語のように薄れつつあり、写真はそれを保存するどころかペラペラだと悩んでいた。写真は宿命的に薄いメディアだと思う。写真が強度をもつとしたら、祖母を撮ることはもう取り返しの付かないことだけど、時間を封じ込めるのではなく、時間にさらす覚悟がいるのではないか。いまの私にはそんなことしか言えないけれど。

■計15組の作品。壁の向こうへ、床の下へ、窓の外へ。けれど、旅先というよりも、旅の入口が多い印象かもしれない。

旅譚展
2002年10月4日(金)〜20日(日)
東京藝術大学陳列館
東京都台東区上野公園12-8
(京橋駅1番出口より徒歩3分)
10:00-17:00
TEL.03-5685-7567

words:白坂ゆり

art166_01_2ゆりとやすこ


art166_01_3画面に金魚の映像


art166_01_4船木美佳「階下の猫がやってきた次の日に、決まって起こること」


art166_01_5横谷奈歩「あのなかのできごと」かつて上の窓の脇にドアがあった。


art166_01_6横湯久美「メルヘンの履歴」より


art166_01_7佐々木健 ものの規格や意味の楔をはずして、やりとりをしながら放り出し、落ちのないところへ転がって行くインスタレーション。

2002-10-04 at 12:38 午後 in 展覧会レポート | Permalink

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