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2002/02/08
vol.37 中山 ダイスケ(Daisuke Nakayama)
「目には見えない絵」
2001年9月11日、ニューヨーク同時多発テロ。NYに住む中山ダイスケから、マネージャーを通してMLに届いた無事を知らせるメールは、どんな恣意的なニュースよりも信頼できる内容だった。
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みなさん ほんとうに沢山の方の御心配メールありがとうございます。
ものすごいことになっています。本当に見た事がないというか、こんなに自分の命について、そして友達や人々の命について感じたことはありません。僕のビルはWTCのすぐ近くなので避難命令が出ています。なので送れるだけメールしたら逃げます。電話はほとんど不通で、テレビもアンテナだったWTCが無くなったので、ケーブルチャンネルしか入りません。まだハイジャックされた飛行機が何機も飛んでいるとの事。ポリスが叫びながらやってきています。
友人からの電話で、1本目に穴があいたところで外に出て見ていたら、2本目が目の前で爆発、2本が順番に崩れるところも近くで見ました。ストリートは煙で真っ黒で、もう地獄の世界です。粉だらけの人々がWTC方面から僕のビルの方向に逃げてきます。恐いです。みんな狂ったように泣いています。
これ以上何も起らない事を願ってとりあえず避難します。僕のビルより南で働いている友人達の安否が心配でたまりません。
僕は無事です。
中山ダイスケ
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その後の彼自身そして制作に変化はあったのか、約3年前のインタビューも参考に、一時帰国した彼に聞いてみた。
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9.11以降、制作に変化はあった?
■うん、自分のタイミングでもあったと思うけれど、テロの影響ははっきりとあった。以前は、制作に入ったら、そのプロセスで新たに感じたことや、精神状態の抑揚によって予定外に湧いてくる感情なんかの、そういったマテリアルに置き換えらづらいものは極力排除してたのね。ひとりごとのような作品はつくりたくなかったから。作家の感情やコンディション、人生といった背景を感じさせず、なるべく均一のトーンでやっていたかった。自分には、戦争体験とか肉親の突然の死とかといった揺さぶられる経験が今のところないから、ドラマチックな事をやろうとしても嘘になっちゃう気もしてたし。だから普通に身の周りで起こる様々な出来事の中から、他人と共有できそうなテーマを好んで選んでいた。もちろん自分が気になるテーマなんだけど、立場としてはちょっと引いて、例えば遠くから雑踏を見つめるようにね。もともとあまり物事に感動しない質で、普段だって悲惨な交通事故を間近で目撃してでさえ、感情が変化することってなかったんだもの。薄いっていうか、そういうものをどこか心の中に、上手く瞬時にしまい込めていたんだね。でも今回、目前で5000人を越える命が一瞬で亡くなる事態に遭遇して、さすがにどこへもしまえなかった。そしてそうやって今まで自分が押し隠していたものがいかに重要かがわかった。単純だけど、目の前で起こる現実だけが結局人を変えるのかもね。
目撃した様子を教えてください
■テレビの映像だと新宿のビル街くらいに見えると思うけど、床面積が広くて本当にすごく巨大なビルだから、飛行機が突っ込んだことよりも、最後に崩れ落ちたことの方がショックだった。ビルの下にあった本屋に行ったり、その先の海を眺めに行ったり、見晴らしのいい場所だったから馴染みもあったし。あの日も素晴らしくいい天気だった。朝だからまだ肌寒くて街の人たちも完全に目が覚めていないときに、一気に突きつけられた感じ。震災や戦災の強烈なトラウマってこんな感じなんだなあと、しばらくそんなことばかり考えていた。僕は身近な人を失ったわけではないけれど。あの朝は、友人から「母親が、飛行機(1機目)がビルに突っ込んだのを見たらしい」という電話を受けて、隣に住む作家の友人と外に出た。僕のスタジオから WTCまでは1キロもないのね。すごくきれいな青空をバックに、銀白に光ったビルに真っ黒い大穴が空いていた。最初は現実感がなく、映画を見るように冷静だった。あんな高いところに空いた穴をどうやって直すのかな?って思ったり。2機目が突っ込んだ時は、突入が背面からだったから飛行機は見ていないんだけど、僕らが眺めていたビルの隣のビルが突然バーンと爆発した。2本のビルに大穴が空いていても、まだ何が起きたかわからず、野次馬となって現場に向かっていくと、「今までビルの40階にいた」って言いながら、見上げて泣いている人に出会ったり。報道のヘリコプターや沢山のサイレンの音、慌てふためいてこっちに走ってくる人々…… だんだん目の前の出来事と今ここに自分がいるっていう事が、じわっと恐ろしくなってきた。人が大勢泣いてる状況ってかなり強い。
メールはその後?
■まだはっきりとした恐怖心はなかったんだけど、とりあえず報道を見たくて、僕らはそれぞれ家に戻った。そしたら肝心のテレビはつかないし、電話もケータイもパンク状態。すでに留守電が沢山入っていて、メールだけが使えたからこれで無事を知らせようと。でも打ってるそばからどんどん心配してくれる人からメールが来る。FBIもドアを叩いて「避難しなさい」と言ってくるし。これはまずいと思って、あのメールを送ったんだけど、送信したらすぐにADSL(インターネット専用回線)のラインまで落ちて。そうやって情報経路が完全に遮断された時点で、本気で怖くなり、とりあえず逃げた。直後はダウンタウンのガス爆発の可能性やら、ハイジャックされた飛行機がまだ飛んでるとかっていう噂が錯綜していたからね。ほんと、空を見ながら小走りで。
その後の様子は?
■テロの状況が報道されるにつれ、いつも冷静なアメリカ人の友人達の対アラブ感情にもパッと火がついた。近所のデリ(雑貨店)のおっさんが怪しいって密告したり。ターバン巻いたタクシーの運転手に悪態ついたりね。白人系のアメリカ人って、普段からアラブ系を軽蔑しているところがあるから、余計にひどかったよ。もともとWTCは観光スポットだから、ただでさえ人々がビデオカメラ持ってる確率がすごく高いエリア。続々といろんな角度からのホームビデオ映像が集まってきて、毎日増えていく。メディアがそれを繰り返し流すにつれ、憎しみがどんどん増していく感じ。被害者のいろんな悲しいストーリーも集められてね。もうみんなテレビの前で泣いてるんだもの。言いようのない恐怖心と悲しみ、何かが変わってしまうかも・・・っていう感情は確かに僕も共有していたけど、市民の感情がヒステリックに高ぶるにつれ、僕の感情は違うところに離れていった。僕って一体何なんだろう?って思ったよ。市民はブッシュ大統領の決意会見の影響というよりも、彼らが自らアメリカ人としての誇りや気概を意識的に盛り上げようとしていたよ。特に移民系の人達にとっては、俺達は皆同じアメリカ市民!!っていうアピールの機会でもあったし。
時間が経ってどう?
■自分が日本人であるという事や、個人として、いかにワールドシステムの中にいるという実感を持っていなかったかを痛感してる。以前は、NYにいるだけでコスモポリタンの一員という気分で、それは心地よい効能として、単にローカリティーを薄めてくれているように感じていた。けれど、そういった場所で何かが起きた時、立場が十人十様に明白に違う人々が、危うく集まっているだけの、結局は強烈なローカリティーの集合体だったんだなあって。日本人としてのバックグラウンドを振り返り、自国の政治思想を把握した上で、個としての意見を持たないと本当に簡単に巻き込まれてしまう。自分のアイデンティティって、ああいう場合は結局この赤いパスポートになっちゃうんだ・・・と、ちょっと悲しくも思った。だから、日本政府のコメントが当日に出なかった事はとても不安だったし、遅れている理由は、きっと日本なりの立場で慎重にコメントを作っているんじゃないか?と、少なからず期待もしてた。それが次の日に出てきたものが、世界で一番くだらない内容で相当がっかり。悲しくなったよ。普段はあまり政治になんて興味がないのに可笑しいよね。街では、ふだん売れないツインタワーのスノードームやステッカーなんかを、さっそく中国人が売り始めていたり、ソーホーのブティックの閉鎖を残念がる日本人観光客が、お土産に星条旗を買ったり、WTCをバックに記念撮影をしていて、そういう事も、かえって僕の恐怖心を煽ってくれた。事件後に坂本龍一さんが呼びかけたプロジェクトにちょろっと参加したけれど、アーティストって、普段からシステムに浸からずに中立でいようとする人々が多いから、目も耳もたくさんついている感じで、本当は好きに発言できる数少ない人種。そういう意味で、アーティストっていう立場の輪郭が少し分かった気がする。僕にはまだ、はっきりとした世界平和の意味や可能性は分からないけれど、僕の作品は、観る人に、戦時下ではなく、できるだけニュートラルな状況で見てもらいたい。だから基本的な作品提示の土壌として平和であってほしいと思うし、できれば僕もそういう所で一生過ごしたい。自分の子供でもいればきっと、もっともっと普遍的な、ジョン・レノン的な平和を願うんだろうけど。正直に言えば今はそんなところ。考え始めるきっかけとしてはかなり大きかった。
9月以前はどんなふうに過ごしていたの?
■光州ビエンナーレ、リヲン・ビエンナーレまでは、ずっと大きな作品の制作をしてきたから、その後は心底疲れ果てた。純粋に作品に注ぐエネルギー以外に、プロジェクトを組み立てるエネルギーが必要で、展覧会というよりも毎回イベントをやっているようだったのね。大きな国際展の煩わしさにも、いい加減に頭にきていたし。小沢剛さんとの展覧会(「クロスカウンター」川崎市岡本太郎美術館)をがんばって終えてからは、まったく制作に気持ちが向かず、ライブを見たり、砂漠を旅行したり、あらためてNY観光してみたり。作家って?アートって? 一体なんだろう、僕は10年近く何をやってたんだろう? なんて考えながら、結局1年以上ボケ〜っと死人のごとく過ごしてた感じ。何もしてないと、消えたくなっちゃって怖かったから、友達のところに生まれた赤ちゃんに実の親以上に夢中になったり、ファッションショーの演出にハマったり、アート以外のことを見つけてなんとか没頭してた。それでも、ちょこちょこ以前から約束していた仕事の期限が迫ってたので、テロの3カ月ほど前から、鉛筆1本でできることに戻ってとりあえず絵を描き始めてた。偶然だけど、黒い飛行機や燃えている家なんかを思いつくままに描いてたの。頭に浮かんだ映像や、感情的な現象なんかを、キャンバスや紙の上で質に変える作業でいいんじゃないか?って気楽にね。その流れでペインティングをはじめたら、すこしづつ絵を描くことが楽しくなってきた。それまでは、世の中にはこんなに多くのマテリアルがあるのにみんな何で絵画なのかなあって、他の作家が不思議だったのね。僕はアイデアに合わせてマテリアルを変えて、その都度使い方を勉強していたから、特に精通する素材なんて存在しなかった。だから素材や表現方法が先にある人は別世界の人で、実は油彩も工芸のように考えていたりもしてた。
スタジオ食堂時代に絵も描いていたよね?
■少しね。最初はドローイングすらも作品として出すものではないと思っていた。ヘタな見せ方はできないと気を張っていたし。今でもクオリティに対する気持ちは変わらないけど、単純に見せ方の問題ではなく、この作家は何故この絵を描きたいのか?っていう「意識」が見える作品がいいと今は思う。他の人の絵を見る時も、なぜわざわざ絵にしているのか、疑問をもって絵の前に数分立ってみる事が大事なんだなあって。絵画鑑賞の基本みたいな事を今まで知らなかったんだね。これまで言った事はないんだけど、実は子供の頃から、自転車ごと宙に浮いちゃって世界が青緑に光っちゃうとか、森の中でムーミンのニョロニョロみたいなものを沢山見たり、突然目の前の空間に穴が見えたりする体験をしていて、そういうのを全部認めちゃえって。ほんと、普段から幻覚をよく見ちゃってるんだけど、通常、何かの薬物が作用して見えちゃう幻覚や、眠っている時に見る夢とかって、あまり覚えていないものでしょう? しかも必ず醒めたら自分で幻覚だったって認識できるわけだし。でもシラフの状態で見えて、今考えても現実だったって信じていられるんだから、僕にとってはそれも現実って事でオッケーって。今まではすごくそういう物に出会う事や、見えた事実が怖かったし、人に話しても不思議ちゃん発言に取られるのがオチだったから、見ていないことにしてきた。そのうち、自分でもあれは幻覚で、こっちが現実だって、意図的に分けてしまうようになってね。そのせいで、オカルティックなものを異常に毛嫌いしていたし、精神世界系の人も大嫌いだった。それぐらい極端に、現実ってものを囲って定義してたみたい。でもこれからは、なんでもとりとめなく出てきたものを抽象でいいから自由に描いてみようかなあと。「描く」っていうプリミティブな表現手段を使って一から考え直したい。'97年に描いた、文字を縫い込んだ絵がそういうものだったんだけど、その時にはどうしてあのシリーズを描いたのか分からなかった。今でもどうやって描いたのかあまり覚えてない。今回あらためてこういう時間に出会えて楽しい。もっともっと音や匂いや空気などにも敏感でありたいし。究極は目には見えない絵を描いてみたい。これまでのインスタレーションのように、あまり多くの人に受け入れられなくても、それがちょっとした人の記憶の隙間に入り込む物になるなら見せる価値アリだなあって。
現実の捉え方が変わった?
■あのテロは、今になれば極めて現実的な理由があって起きたことだって分かるんだけど、あのショックによって今後、非現実的なことすらも、いつ起こってもおかしくないと今は思える。それも作用したのか、僕が今まで一つだと信じようとしていた世界も実は虚構の一部で、子供のころからずっと見えていた不可思議な世界にも、それなりにリアリティーを感じられてきた。境目がなくなってしまったみたい。いまは人間や世界の本質を知りたいという欲求がものすごく大きい。普遍的に自分の気になる制作テーマはなぜか「距離感」なんだけど、今までは人間同士の関係性に限定していたから、これからはもう少し大きな視点でやってみたい気分。こうした変化のおかげで、今までの作品の事も、前よりずっと好きになれたし、自分が本質的にやりたかった事も少し見えた。これからまた出直しです。ちょうど今日本にはギャラリーもないし、いいタイミングかも。
※今後の予定
2/23〜3/20 Drawing, Daisuke Nakayama (ニューヨーク Rare Gallery)
その他、ボストン、ヘルシンキでのグループショウ、東京は秋に国立近代美術館 でのグループショウに参加予定。
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words:白坂ゆり
2001.9.11中山ダイスケ撮影
Are we there yet? ー1 2002
Are we there yet? ー2 2002
little things 2001
little things -2, 2002
little things -3, 2002
「little things -5, 2002
中山ダイスケ(Daisuke Nakayama)
1968年 香川県生まれ
1990年 武蔵野美術大学視覚伝達デザイン学科中退
1997年 ACC ブランシェット・ロックフェラー・スカラシップで渡米、International Studio Programに参加。以後NYを拠点に活動。
個展
1995年 Car of Desire(ギャラリーアート倉庫/東京)
1996年 Camouflage(レントゲン・クンストラウム/東京)
1998年 Under the Table(ダイチ・プロジェクツ/NY)
Nice to Know You(レア・ギャラリー/NY)
1999年 Full Contact(丸亀市猪熊弦一郎現代美術館/香川)
ほか多数。
グループ展
1998年 台北ビエンナーレ(台北)
1999年 光州ビエンナーレ(光州)
2000年 リヨン・ビエンナーレ(リヨン)
2001年 クロスカウンター(川崎市岡本太郎美術館)
ほか多数。
2002-02-08 at 12:36 午後 in アーティスト・ヴォイス | Permalink
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http://www.daisukenakayama.com/
投稿情報: fish | 2004/12/18 15:54:30