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2001/10/12

vol.34 河田 政樹(Masaki Kawada)

「美術と関わる」

kawada

河田の展示を見ると、一見なんでもないところになにものかを見ていることが伝わる。作品を見ていると、「世界」を触知しているんだなと感じるのだ。見えないものを見たいがために、彼は美術と関わっている。美術をかぶってるんじゃなくて、その外にいて見ている感覚。作品の良し悪しは、作家が見ている地平のようなものに信頼が置けるかどうかではないかと最近とみに思う。

最新作のまず「non/」という写真作品について。映画のビデオをテレビのモニター画面に流し、静止画にしてカメラで撮影した理由は?

■映像って、画面に映った(映画なら幕に映った)表面なんだけど、イメージという別の奥行きがある。僕が映像を見るときは、フレームの中に入っちゃってるんですよ。たとえば、遠くに木が立っていたら、カメラが寄るのではなく、僕が木の近くに寄っていくとか。映画を鑑賞しているときは、イメージの世界に入り、見入っている。で、終わって意識が戻ってくると「さっきのはなんだったのか」と。何も映っていない画面と僕との距離しかない。そのこっち側の距離(厚み)を、ブラウン管の向こうの距離(厚み)と行き来することで見えてくるもの。向こうになぜ見入ったのか、平面とこっちの距離の間になにか見えて来ないか。

遠くから見ると抽象画のようで、近づくとドットが見えて映像を撮ったものだとわかりますね。

■画面に映る映像があり、さらにその映像には奥行きがある。一方、近づいて見ると、テレビの画面、インクジェットのインクのムラやら不織布の質感やらいろいろな表面が見えてくる。映画の場面は、さきほど言った映像の奥行きの距離と、見ている僕と映像の距離との、ギャップが起きた場面を抽出しています。そうしたいろいろな距離を一枚に詰め込んでべちゃっとつぶして、焼き付けた。

布の上だけクリップで止めてぺらっと展示したのは、幕や断片といったことを想起させ ますね。

■うん。映画全体の物語に関係なく、そこに映されている断片から見えてくるもの。以前に、本のページを断片的に写真に撮った作品がありますが(神奈川アートアニュアルの展示)、それを映画に置き換えてみた。はじまりから終わりへ、流れをもつひとつのものを分断し、抽出する。

自分で撮った映像作品「Spiral」はテレビモニターで見せていたけど。

■撮るときにまず僕と風景との距離があり、次に編集の際に、撮影したものを見るときの距離がまた存在する。コマもいろいろあり、さらに逆回転で編集しつつ、それがはっきりわかるのとわからない場面を混ぜることで、画面を通して想像する風景と、実際にいま見ている自分が置かれた風景の差違を見せたかった。写真よりさらに断層みたいに、いろいろな距離が重なり、意識のなかでは行きつ戻りつ。たとえば10分のなかにさまざまな階層が見えてくるような、一定の時間のなかにいろいろな距離をはめ込む。すでに先があるんだけど、ないようなねじれた感じもある。

写真「non/」を見る時間は、最初に一見してから部分を見たり、全体を見たり、1秒ごとの体験が連続して、見終わったときには、見たものが最初のものより更新されていることで、時間が認識されますよね?

■写真では、映画の映像の厚みを、見る人が感じ取ってくれるよう委ねました。映像は見る人をある程度強制して、受け身にしますよね。平面だと能動的に見る。1秒しか見ない人でも、そのなかに映像のもつコマやフレームの力がギュッと感じられれば。平面に押し込めた分だけはみ出たものは「Spiral」に存在し、「non/」にないものだと思います。

そして「他人の」は雑誌を撮った写真で、また距離が異なるものですね。メディアが違 うと見えてくるものは違う?

■圧倒的に違う部分があるんだけど、一方で、映像や写真、言葉やオブジェとかが持っているものって、お互い補うように、どこかで入れ子状態だと思う。

映像でも言葉で見ていたり、絵(写真)として切り取って見ていたり?

■そこをちゃんと分けないと本質的なものは見られないと思うんだけど、分けたから線が引けるわけでもない。膜をはがしていくのではなく、表面からその奧の凝固した厚みを見ること。表現を続けていると、あてはめても、ズレていくものがある。美術という言葉からもはみ出ているものがいっぱいあり、だからこそみんな美術にあてはめていくと思うんだけど。本当の美術は何なのか、という問いかけの上に美術があるように思う。最初から美術だと思ってやってるとその範疇でしか動かない。表現に対して後から名付けてる、最終的にそれが美術か美術じゃないか判断を下すときには、つくっていった厚みも見ていかないと。

いろいろな関わり方があり、そのひとつひとつは、これでしかできないもの?

■僕は、僕が美術だというのではなく、どこかに美術があって、そこに関わるのだと思ってる。僕は向こう側のイメージをつくりたいのではなくて、こちら側の、僕あるいは見る人と、作品との間に発生するなにかを見出したい。

高校生の頃は音楽をやってたと聞いたけど、その頃も、見えないなにかを見たいという感じが先にあったの?

■そうだと思う。でも、音楽では見えづらかった。いまは、もうひとつ別の表現として、音楽とかもの書きとかを捉え直せるかも。美術がなくてはだめだと思うけど、振り幅を大きくしたい。カラダに力が入って硬直してる「肩が凝ってるなー」と思うときは、見たいものが見えなくなってると思うから。

information
※〜2001年10/21(日)「LIFE MUSEUM」(Gallery ART SPACE)に出品。
渋谷区神宮前3-7-5-4F TEL.03-3402-7385

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words:白坂ゆり

eye35_01「路地を吹き抜け」より 2000年 ドローイングの束、テキスト他 (モリスギャラリー)



eye35_02「やどり木、句読点。/無心の歌、有心の歌 ブレイク詩集」 2000年 文庫本、アクリル絵の具 (ギャラリー手)



eye35_03神奈川アートアニュアル展示風景 2000-2001年 写真、額 (神奈川県民ホール)



eye35_04「sample、あるいは、公開」より  2001年 (ギャラリーそわか)



eye35_05「non/」 2001年 不織布にインクジェットプリント (東京画廊)



eye35_06「他人の」 2001年 写真 (東京画廊)



eye35_07「Spiral」 2001年 映像 (東京画廊)



河田政樹(Masaki Kawada)

1973年 東京生まれ
1999年 多摩美術大学大学院美術研究科絵画専攻修了
個展
1998年 「第2回アート公募'98審査員賞展」(keyギャラリー/東京)
「平凡」(Gallery ART SPACE/東京)
1999年 「四つ葉のクローバー」(フタバ画廊/東京)
「平凡」(Gallery ART SPACE/東京)
2000年 「路地を吹き抜け」(モリスギャラリー/東京)
「やどり木、句読点。」(ギャラリー手/東京)
「notes」(ガレリア・ラセン/東京)
2001年 「LIFE」(ART SPACE LIFE/東京)
「sample、あるいは、公開」(ギャラリーそわか/京都)
グループ展
1999年 「Modest Radicalism」(東京都現代美術館/東京)
「日替わり留守番展」(Gallery ART SPACE /東京)
2000年 「言葉・言場・言派」(ギャラリー手/東京)
「遺失-取得法 leave-fine」 (ガレリア・ラセン/東京)
「気体分子アートシリーズ-聖なる分子-展」( 東京画廊/東京)
「路地を吹き抜け」(モリスギャラリー/東京)
他多数

2001-10-12 at 01:28 午後 in アーティスト・ヴォイス | Permalink

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