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1999/03/27

村瀬恭子「sleepers」馬場健太郎「風に出会う」

絵を描くという行為


art60_01村瀬さんの作品。女性の姿が描かれているが、その色合いは独特だ


■「美術」や「アート」と言われて絵を見せられて、疑問に思う人はいないと思う。ほとんどの人が小学校で美術を勉強したときに、何枚かの絵を描いたはずだ。学校に入る前だって、紙はもちろん地面や壁に「落書き」したことだって憶えてる。「なにかを描く」というのは、僕たちが最初に、それも自然にしてきた表現方法のひとつだと言えるかもしれない。今回紹介するふたりは、まったく違う方法で「絵」という表現の可能性を試みていた。

■村瀬恭子さんが描く絵はとてもシンプルだけど、とても不可解な絵だ。一見すると少女や犬といった描かれているものはわかるけれど、見れば見るほど違うものに思えてくる。筆の跡もはっきりわかるようにカタチは描かれているのに、たまたま人間だったり犬のカタチになっちゃった、と言われても納得するかもしれない。「カタチを描き写す作業」は、ここにはまったく見えてこない。

■絵に描かれたものは、本物じゃないってことはわかっているはずだけど、僕らは簡単にそれが人間だとか犬だと思い込んでしまう。そこには描いた人の思いや過ごした時間がいっしょに塗りこめられている。だから、簡単に見過ごすこともできるけど、じっと眺めていれば一筆一筆に描き手の感情を見ることができるかもしれない。本当はそこになにが描かれているんだろう、と。

■いっぽうの馬場健太郎さんの絵には、「描く」という言葉自体がふさわしくないかもしれない。見えているのは幾重にも塗り重ねられた赤や緑の平面だ。ところどころ他の色がのぞいているのは、「削り取られて」下から現われた色。蜜蝋と油彩を混ぜた色を重ねていくと同時に、ある部分は色がぬぐい去られていくことで完成に近づいていく。

■絵を描くということは、色を重ねることで完成に近づく一方で、ある点をすぎれば、それは完成から遠ざかっていくとも言える。どこまで描き込めば、色を重ねれば完成なのか、その答えは描く人ひとりひとりのなかにあるけれど、ひとつとして同じ答えはない。

■僕らは絵という表現に慣れすぎたせいか、その幅の広さや可能性を忘れているのかもしれない。描き手によってまったく違うことは百も承知のはずなのに、その違いがどこにあるのか、なんであるのかを見ているんだろうか? 作品との対話は、描き手との対話でもあるはず。絵という表現は、その機会をじゅうぶんすぎるほど僕らに与えてくれている。

村瀬恭子「sleepers」
1999年3月27日(土)—4月21日(水)
タカ・イシイギャラリー
東京都豊島区北大塚3-27-6
tel.03-3915-7784
11:00〜19:00 月休

馬場健太郎「風に出会う」
1999年3月30日(火)—4月25日(日)
オレゴンムーンギャラリー
東京都江東区猿江1-18-4
tel.03-3846-5344
12:00〜19:00 月休


words:桑原勳

art60_02近くで見ると、表情はなく単調な線の記号のようにも見える


art60_03これも犬とわかるけど、表情はなく白い塊に見える


art60_04馬場さんの作品。平面に広がった赤は複雑な表情を見せる


art60_05作品を近くで見ると、塗り重ねられた色の様子がわかる


1999-03-27 at 11:17 午前 in 展覧会レポート | Permalink

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