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2008/08/26

Apart a part 竹村京

ベルリン在住のアーティスト、竹村京の展示がトーキョーワンダーサイト渋谷で開催中だ。

Dsc_5407 先日、高野文子の『黄色い本』を読んでいたら、高校生の主人公が『チボー家の人々』を読みながら生活をしている感覚が、竹村京のパフォーマンス作品に似ていて少し驚いた。どちらの作品も複層した時間が現れながらも、現在の記憶を再度構成しているところが興味深い。

透明感が漂う竹村京の作品は一見わかりにくく、つかみとるのに時間がかかる。観客はまず、オーガンジーに施された刺繍の美しさに嵌るところから彼女の作品に導かれ、速度を伴った線と抑制された表現のドローイングをゆっくりと見ながら、壊れたものが布にくるまれている修復シリーズのオブジェに足をとめ、そしてトレーシングペーパーとオーガンジーの何層かの隙間から作家本人が現れパフォーマンスするのを目撃するだろう。作品と対峙した瞬間、わかりやすさを感じたり、感情移入をしながら見たりという快楽はない。しかしそこには複雑な時間の共存がある。

1f_installation_view_1 本展で彼女は、親しい友人であるピアニストのN.T.さんとその母親をモデルに作品を展開している。N.T.さん同様竹村もベルリンと東京を行き来する生活をしている。竹村は近年、地震というモチーフを作品に登場させているが、N.T.さんが0歳のときに遭った地震の話をもとに本展ではいくつかの地震のイメージが現れる。2005年に起こった宮城県沖地震で仙台市にある屋内プールの天井が崩落するという事件、1884年に起こったというイギリスのコルチェスタでの地震のイメージなどの様々な過去が立ち上がっている。崩壊した天井や屋根、またN.T.さんの母親から聞いたという、地震の際に乳母車が動いていた記憶や、トイレットペーパーが落ちてきたこと、風呂の水が跳ねていたことなどの動的な要素は刺繍によって表され観客は文字通り縫い付けられた時間の集積に出会うことになる。

大画面の作品のうちの一つには、屋根がずり落ちてくるコルチェスタの地震のイメージの下層にベルリンと東京のN.T.さんの生活が潜んでいる。布と紙との重なりや運針の軌跡が見てとれる糸の触感に、時間のあらゆる面が区別されながらも同時に現れているところが重要だと感じる。

高野文子の漫画を論じた「高野文子のマンガはなぜ速読ができないのか」(『マンガは動く』、阿部嘉昭、2008、泉書房)には、高野マンガのテーマとして「過去の現在化」(言い換えると現在の回想の再構築)という言葉が登場する。高野作品と竹村さんの作品の共通項は、抑制がきいた表現、省略された線、または少女っぽさが見え隠れするところがあげられるように思っていたが、多層的な時間こそがどうやらキーワードらしい。

Dsc_5416多層的な時間の集積はパフォーマンス作品である「May i enter?」にも見て取れる。パフォーマンスにあたって竹村はたくさんのメモを書いている。友人がどのように髪の毛を乾かし、どのようにファンデーションを塗るか、丹念に観察しそして再現する。竹村は親しい友人をなぞることで、自分自身と出会い、追体験をしながら新たな回想を再構築していく。その行為から、過去を現在として生成させていることがわかる。過去は大切なものであるが、懐かしさの対象として捉えていないということが、修復のシリーズを見てもわかる。壊れた茶碗は接着剤や新聞の継ぎ足しを経て修復され、さらに布でくるまれることで、新しい時間を表出させる。壊れた茶碗やワイングラスを壊れる前の状態にしているのではなく、作り出された現在の状況が既に記憶になっているという逆説をも含んでいる。

高野文子の『黄色い本』は高校生の主人公が半年かけて『チボー家の人々』を読むという体験が描かれている。読者である主人公は自分が登場人物の一人であるかのように感じた、小説の登場人物が実際の生活に登場するかのように感じている様子が繰り返し描かれている。ここでは、高野のマンガについてあまり深く触れるつもりはないけれど、架空の物語に嵌り込み、現実と虚構が錯綜しながらも同時に存在する『黄色い本』というマンガは、少なくとも時間の表現において竹村の作品を読み解くヒントになるように感じる。

Img_1115_3そもそも、パフォーマンスを行うきっかけになったというのが、残酷なプリント地のミトンだというエピソードを本人から聞いた。家族の姿が描かれたプリント地なのだが、なぜかお母さんの首が無い状態の部分でカットされ、台所用のミトンとなって売られていたという。幸せな家族を描いているはずのプリントに首のないお母さんが立っている…、それを見て、そのお母さんを演じなければいけないと思ったそうだ。想像上の、アンリアルなものである人物を、実感を持って演じたという始まりは、現実と虚構が伏在した竹村のパフォーマンス作品の原点として納得がいく。
パフォーマンス用に仮設の棚や机を作り、平面空間から現れた竹村が、毛先をくるくると回しながらドライヤーを使い、淡々と封筒を破っている姿を見ていて、観客はその行為を追体験しているのだろうか?と問うと、そうではなくて恐らく彼女の作品に嵌り込んでいるのだろうと思う。作品の隙間に潜む時間に、現在化された過去を見出し、時間を多層化していることに気付くことで竹村京の作品に共感し、そこに美を見出している。

私は、作品を約一ヶ月見続けた後、複雑な時間に混乱し終えると、ドローイングの的確さ、省略と抑制のうまさ、壊れた物や親しい人に向き合う姿勢そのものの美しさと対峙することができた。と、同時に完璧に作者に統制されていることにも気付く。しっかりと見る者を巻き込む精緻な計算があり、見る者はその中で揺らぐことができるからこそ彼女の作品がささやかでありながら強い吸引力を持っているのだろう。

今週末、8月31日まで。

TEAM14 「Apart a part」 竹村京
2008年6月28日〜8月31日
トーキョーワンダーサイト渋谷

words:水田紗弥子

2008-08-26 at 10:39 午後 in 展覧会レポート | Permalink

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