« フランシス・アリス「ファビオラ」 | メイン | ライターの近日遊覧予定【4/10~】 »
2008/04/01
第2回 shiseido art egg 彦坂敏昭
絵画制作においては、彼が採るその技法が、なによりも雄弁に作家自身について語ることがある。彦坂敏昭の場合、それが顕著な例だといえるだろう。彼の方法とは、自ら撮影した、あるいはウェブ上から採った風景写真から色彩を除き、コンピューター上で幾度となくエフェクトをかけて画像を認知できる図像的な階層性を断片化し、打ち消し、そうしてできた像を銅版にシルクスクリーンやエッチングによって転写してゆくというものである。そしてこの銅版を腐食させ、凹版で紙に定着させたものをベースとして、鉛筆や墨、水彩絵の具を用いながら、画像の断片化された痕跡をなぞっていく。
(上)撮影:加藤 健
この技法が、作家という主体を技術的な属性に従わせてゆくという意味で、つきつめてシステマティックものであることはいうまでもない。けれども、画家が機械になりきり制作を進めてゆくという、すでになじみのある美学がある程度は彦坂に認められるとはいえ、この作家の場合、それが屈折した性格とともにあることは確認されてよいのかもしれない。作家が述べるところでは、デジタル画像の加工、版への転写、そして鉛筆などによるなぞる行為といった一連の制作行程の多層化は、制作の過程において幾度となく決定が強いられることにこそ問題の所在があるからである。(作家はそれをYesとNoの繰り返しであると言う。)
つまり彼の方法は、レディ・メイドたる画像を採用することによって、主体の位置を曖昧に打ち消してゆくものではない。彼にとって重要なのはそのような画像の既存性ではなく、レディ・メイドな画像が転写され、その上でなぞられるという——この技法がレイヤーの複数性を前提とするがゆえに——同じような操作の反復が何度も強いられる過程にこそある。つまり、このようなプロセスはその形式的な操作とはうらはらに、画家の判断を要所要所において過酷に迫るものであることに留意しておく必要があるだろう。(たとえば2004年から開始されたシリーズが《テサグリの図面》と命名されていることは、プログラムにコントロールされながら、かつそれをコントロールしてゆくという二重性を、作家が引き受ける状況を語るものではないだろうか。)
彦坂の絵画の画面が持ち得る、おそらく多くの観者が感じるであろう、ある種の過酷さはこの二重性に由来しているとも言えるだろう。彼の絵画とは、そのように受苦性と能動性のスイッチを絶えず切り替えてゆく状態によって可能になるものなのである。素材としての画像は彼の趣味や個人的嗜好を反映しないものに限定されつつ、その方法によって絶えずあらわになる複数のレイヤーは、曖昧さを拒絶して画家にその局面を通過することを強いる。身体を覆うに十分な容量を備えた彼の作品の表面に目を近付けてみたときに感じられる、複数の論者が指摘してきた「ヒリヒリする感じ」や「崩壊を予感させる」ような、われわれの網膜を細かく裁断していく独特の感覚は、だからあの煽動的かつ触覚的な視覚性によってもたらされるものではなかったはずだ。むしろそれは、彼の方法が内在させる複数の手続きがもたらす作家自身の過酷な状況によって呼び込まれたものである。
それゆえに、2006年から開始されたという、赤を多用したシリーズの見せるオプティカルな効果は、作家の新たな展開を示すものであるとはいえ、積極的な評価を下すには一定の留保が必要となるだろう。もともとの図像が線的な機能をもたない無数のグリッドにこの上なく細かく裁断されているがゆえに、そこに強烈な色彩をおくことは、その視覚的な効果を「簡単に」助長してしまう。けれども、すでに指摘したように、むしろ彼の絵画がもつ錯視性は、そのような表面的な効果に収束するものではなく、その手続きの多重性が画面に透過されているという特異性にある。たとえば、彼の絵画のサイズはことごとくペインティングのような大きさを持っているが、その見かけを裏切るように、絵画はあくまでも紙を支持体とした版画であり、その上から鉛筆や水彩といった、いわば「弱い」技術を用いることによって可能になるものなのである(実際、一番大きなサイズの作品は、複数のパネルの組み合わせから成っていた)。
彦坂の作品の持つ、このトリッキーな性質にこそ、積極的に注目すべきではないだろうか。微細な図に色彩を重ねてゆくことで生じる視覚的なショックよりも、このような錯視性によって生み出されるのは、むしろ事後的な了解であり、版画や鉛筆によってつくりだされるある種の硬質さは、そこに至るまでの作家の決断と営為を透かして止まないのである。その硬質さはしたがって、画面を厚いマチエールで覆ってしまう油彩ではすでに不可能なものであるがゆえに特権的なのだとも言えるだろう。それゆえ彦坂の絵画を特別のものにしているのは、技術的にもたらさせる制約を徹底させることによるこの表面の硬さである。それはすでにマチエールと呼びうるものではなく、図像の粉砕された状態(無数のグリッド)と呼応しているがゆえに、デジタル画像を借用することによって陥りがちな、主題の選択から作家を切り離し、図像のレディ・メイド性を強調するだけの絵画であることを周到に避けている。
もちろん、この作家の作品には、良くも悪くもある種の退屈さや、平坦な知覚に還元されるだけの散漫さが(それを彼自身が自覚的に引き受けようとするものであるとしても)感じられないわけではない。三次元的な図像を加工し、その輪郭線や立体感を消去させていくことで生まれる徹底した正面性。そして、その正面性に準じて、なぞるという行為の痕跡のみが図を発展させてゆくという作業の永続性。それはたとえば「なぞる」という行為のみを特化し、フェティッシュな対象としてしまうことで作家固有の身体性に回収してしまう危険性も同時にかいま見せているだろう。
彦坂が現在ふたつの展覧会に参加し、出品した多くの作品によって観客に印象づけるだろう多産性も、彼の作業が時間の永続性に支えられたものであることを示している。この時間によってもたらされるのは、かつて同じような機械論的な方法と技術を採用していた20世紀の作品が持ち得たような瞬発力ではもはやなく、それは差異と反復とを含みつつも遅延し、ダラダラと継続される引き延ばされた時間である。しかしその画面がわれわれに教えるのは、その時間性がもたらす狂気にも似た状態ではなかっただろうか。その萌芽がすでに認められるという点で、彼の絵画はやはりある種の特権性を獲得しているとはいえるのかもしれない。
第2回 shiseido art egg 彦坂敏昭展
2008年3月7日〜30日
資生堂ギャラリー
TEL:03-3572-3901 中央区銀座8-8-3
words: 沢山遼