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2007/11/29
プライマリー・フィールド
ほどよい緊張感のうちになめらかに作品を巡ると、気が付けば場外であったという展示はそうあるものではないが、筆者にとっては極めて稀なそのような体験を与えてくれたのが、『プライマリー・フィールド』と題された七名の作家が選出された企画である。
多和圭三 原器—正六面体 2006
神奈川県立近代美術館 葉山で開催されているこの企画には、吉川陽一郎、多和圭三、大森博之、石川順惠、青木野枝、坂口寛敏、さかぎしよしおうの七名が出品し、リーフレットなどにも記されている企画者によって提示された様々なトピックからは、(例えば「恬淡とした制作態度」「シンプルな作品の構造」など)日本現代美術の歴史的な一断層を垣間見させようという企画者の意志が伝わってくる。
とはいえ、カタログの冒頭論文に頻出していた美術における「モダニズム」という用語にしても、それが個々の作家のフォルムに認められることなどはついになく、批評の態度としてのみ、歴史的な正当性を勝ち得たのであったのであれば、この企画趣旨を日本における遅延したモダニズムの成果であるとするような見解だけは断固として避けなければならないのだろう。
個々の作家の仕事に共通する理念めいたものなどは何一つない、にも関わらず、そこからなにか時と場所とを同じくして生起したものだけが持ち得るような、浸透しあう項が浮かび上がることが重要である。そのような意味でこの企画は、多くの現代美術展が陥りがちな理念めいたものによる統制を免れていると同時に、企画展自体をひとつの連続体とすることに成功しているのではないかという印象を強く持った。
ひとつには、それぞれの作家の作品を個展形式でみせていたことがその要因だろう。作品の強度はもとより経験豊富な個々の作家に与えられた個別の空間での経験が、脳裏に軽い残像めいた振動としてのこり、また次の部屋でも反復されるといった持続的な経験がしばしば起こったのは事実である。またそのなかで、形式的な、あるいは行為そのものとしての「反復」がほとんどすべての作家に例外なく認められたことは強調しておいてもよいだろう。溶断した鉄を尽きることなく、したがってしばしば展示空間を無視した高さにまで積みあげられる青木の彫刻はもとより、着色した液状の磁土をスポイトで積みあげひとつのフォルムにまで結晶させるさかぎしや、玄能で打ち付けられた鉄の塊が無数の行為を刻印している多和の作品はそうした傾向の一端である。
このように反復は、一つ一つの作品に「行為」として内在しているのだが、同時に、また作品そのものの形態が反復的に繰り返されているという事態が、それぞれの作家において展開されていることにも注目すべきだろう。つまり、そこにはふたつの意味での反復がある。ひとつは行為の反復が作品の部位や作品制作の根拠となるような反復であり、ふたつ目には複数の作品同士の反復である。それは端的にこうした疑問として言いかえられる。なぜ彼らは同じ行為を繰り返すのか、またなぜ彼らは行為に裏打ちされた作品を飽くことなく作り続けているのか・・・。
もちろん、本当に「同じような作品」であれば、制作はそもそも必要とされないはずである。つまり制作とは、決して傍目には分からないような、「事件」とでも呼び得るような、いかなる一般性にも還元できないものがそこにあるからこそ反復されるよりほかにないようなたぐいのものであって、いわば作家たちの制作はその不在の対象をめぐって体積されてきたのである。そもそも、彼らの制作が不可視の対象をめぐって繰り返されてきたのでなければ、それぞれの作家の現在のように持続的な制作を誰が想像できただろうか。
たとえば、カタログ所収の全出品者のインタヴューの後記で是枝開は、ほとんどすべての出品作家が現在の作品に至るにあたって特殊なブレイクスルーを遂げていることを指摘している。しかもその感覚の到来はきわめて抽象的なものであり、(さかぎしよしおうは端的にその経験を「来た」と表現している)彼等自身もほとんど言語化することなくやり過ごしてきたようななにかである。このような経験が彼らに反復徴候としての作品や方法論の類似性を与えていることは疑いようがない。その意味で彼らの作品は、絵画や彫刻といったフレームに還元できないような固有の論理をもって持続している。つまり、作品には「それ、そのもの」としか指し示すほかない、類的な対象に回収されることを拒む唯名論的な態度が認められるのである。
「名づけ得ぬものの唯名論」とでもいうような、一連の反復的持続性に歴史的な根拠を与えてみるとすれば、おそらく松浦寿夫が言うように、(『日本近現代美術史事典』所収「絵画と平面」東京書籍)1970年代から日本の美術の現場で旧来の絵画/彫刻に変わって使われるようになった、平面/立体という呼称の台頭が挙げられるのかもしれない。今回の出品作家も1970年代以降にデビューした者(正確には1980年以降)がほとんどである以上、平面/立体というタームのなかで作家活動を展開してきたことはいうまでもなく、つまり平面/立体とは、このような特殊な反復的徴候に対するいわば便宜上の措置だった、とすることもできるかもしれない。比較するには様々な条件が違いすぎるとはいえ、たとえばラウシェンバーグやジャスパー・ジョーンズには、明らかに絵画を彫刻化する、あるいは彫刻を平面化するという転覆的な意図があった。したがって絵画/彫刻という二項対立が彼等の作品の存立基盤となっていたのであれば、そのような作用を持たず事後的にのみ指し示されるのが、一連の平面/立体と呼ばれる動向であった。「プライマリー・フィールド」の出品者たちは、まさにそのような状況で制作してきたといえるだろう。
青木野枝 空の水—X 2007
ひとりの作家において、なぜひとつの形態や態度あるいは行為が執拗に反復されるのか、制作に携わっていない筆者にとって、それは遥かな疑問符であり続けている。だが、多和圭三や石川順惠が語っていたように、あらかじめ決定された全体像は作品に何ものも寄与しない、という主張は、そうした意味で示唆的だった。つまり現在のとめどなさに向かい合うことだけが、作品が社会的な対象物(ある傾向の絵画/彫刻)を持って生産されてしまうことに対抗し、あるいは複数の作品同士の連鎖が導きだしてしまう作者という名の形而上学に対抗できる。たとえば現在至る所で、近代的な芸術家像(自らの反復強迫におびえる主体)が回帰してきているという印象を持っている筆者としては、むしろこのような実践の方にこそ、作品が作品たりえる条件を突き付けられたと感じる。
プライマリー・フィールド
美術の現在─七つの〈場〉との対話
神奈川県立近代美術館 葉山
2007年11月23日(金)〜1月14日(月・祝)
月(12/24、1/14開館)、12/25、12/29〜1/3休
TEL: 046-875-2800
9時半〜17時
JR逗子駅から3番のバスで約18分 三浦郡葉山町一色2208-1
words:沢山遼
2007-11-29 at 09:11 午後 in 展覧会レポート | Permalink
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