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2007/10/20

伊藤誠 彼方

P1000342_2 よく知られるように、1846年のボードレールに端を発する「彫刻の退屈さ」への指摘は、近代芸術の絵画優位の歴史に先鞭をつけるものとして語られてきた。ボードレールは、彫刻に対する絵画の優位を説く上で、彫刻というジャンルは三次元の物体から成り、複数の面を持つ−−つまり多くの視点から眺められるがゆえに徹底的に受苦的な存在であると書いたのだが、彼が言うように、彫刻は創作者の意図通りに見られることが不可能なジャンルである。

左)嫦蛾II
右)lung

それは絶えず、たとえば展示室の照明などの外在的な条件がもたらす不確定的な陰影などによって、あられもない姿を無防備にさらしている。無防備な彫刻はそ れゆえに作者の意図を超えて見られてしまうのだ。ボードレール以降、このようなあからさまに窃視的な視線に耐えうる彫刻をつくることはもとより、それゆえ にフェティッシュが極めて発生しやすい彫刻というメディアを、そうした視線の確保なしにいかに調停するかという問題に自覚的でない彫刻家は、ほとんど彫刻 の作者足り得ないかのようだった。

ボードレールの糾弾した彫刻の無防備さは、いうまでもなく彫刻が完全な「かたち」を成すことからもたらされるものであった。つまり彫刻は部分と全体からなる「かたち」によって成立するがゆえに、様々な角度から成る視線を成立させてしまうのであり、その視線の複数性が知覚の分裂を顕著にするからである。たとえばロダンが近代彫刻の父と呼ばれるのには、はっきりとした理由がある。それはロダンこそ、人体の形象をもとにしながら身体の部位をバラバラに解体していった最初の芸術家だったからである。(それを目にした観衆の疑問はまた、なぜこれほど断片化された人体が、しかしこんなにも迫真的に見えてしまうのかというところにもあった)。20世紀の彫刻ではこの展開はより顕著であって、ヨーゼフ・ボイス、あるいはヤニス・クネリス、ジョゼッペ・ペノーネなどの作家たちは、彫刻であるかどうかも不確かな切片同士の関係によってロダンをある意味では継承していたと言えるだろうし、同様にデヴィッド・スミスやアンソニー・カロ、そして一連のミニマリズムまで、断片化の進行は留まることがなかったのである。それゆえに彫刻の断片化は、部分と全体、あるいは周縁と中心といった関係性を無効にするという戦略を秘めていた。いずれそれが統一的な「かたち」として見られることを拒否するような身ぶりであったのである。

つまり現代の彫刻家にとって、「かたち」がいかに実現困難な命題であるか、またそうであるがゆえに、「かたち」の復権こそは、いかに現代の彫刻家の急務であったか。(しかしこうした事柄を忘却してゆく美術史というものの残酷さと不可逆性に対応する風景は、われわれの眼前にすでにありふれたものとしてあり過ぎている)。伊藤誠の彫刻をみるとき、「かたち」と格闘してきた作家の歩みが尋常なものではなかったことをわれわれは知るべきだろう。しかし実際に彼の作品をみるとき、それらはあくまで軽やかにつくられていて、こうした図式はほとんど消し去られてしまうのである。伊藤の彫刻は彫刻というメディアが文字通り舐められるように見られるというということをむしろ積極性として引き受けている。たとえば「下から」彼の彫刻を見ればそこには必ず発見がある。

寛容さ。複数の視線を招き入れるこのような彫刻の態度をそう形容することもできるだろう。彫刻とは「下から」も見られるものであるというかのように、長年に渡ってこの作家があたかも壁面に寄生するかのような立体を手掛けてきたことは自ずと知れるところであるし、それゆえに彼の彫刻にはその寛容さと相まった「かたち」の生成が、つまりそれらが未だかたちならざるものを抱えた形成の途中の産物であるという持続性が宿っているのである。こうした性質を伊藤独特の不完全性の定理といってもよいだろう。それはたとえばギリシャの彫像が、腕などの胴体にたいして派生的な場所に欠損した部分をもつために、そのことが逆説的に想像的にあるべき完全性を立ち上がらせてしまうといったたぐいの空間的な抵抗を持つものではなく、むしろ時間的な持続と忍耐を強いるものなのである。よって不完全性はつねに、対象の側にあるのではなく、それを感知するわれわれの方にある。

たとえば《pod》という作品では、いかにも重厚な鉛の塊が壁面に留まっていて、その重量感と壁面との関係のギャップが感覚的に整理できず、そんなはずはないと思い下から覗くとはめ込まれたステンシルメッシュから内側が中空であることが知れるのだし、また《lung》でも同様に、型枠がシャープな黄色い色彩のポリウレタンを容量として覆われているが、その素材はあくまでスカスカで実在感の希薄さをあらわにし、それゆえにそこに表面というものはなく視線はその内側へと埋没してしまうかのようにはぐらかされる。こうした視線と物理的な質量との感覚的なギャップを「かたち」として重鎮してゆくこと。これらの作品をみることはそれゆえに「かたち」の形成を制作者とともに見守るような、いくつかのレッスンを伴うものなのだろう。ボードレールが絵画の優位を、作品をコントロールする画家の専制に根拠を置いたのだとすれば、彫刻というメディアは、それを見るものとの共同作業によって不利益を被ってきたのであり、けれども伊藤の作品で一連の作業をなすわれわれは、かたちならざるもののかたちの生成をそこに見届けることができるのである。

伊藤誠 彼方
2007年10月13日(土)〜31日(水)
11時〜16時 日月祝休
島田画廊
Tel:03-5430-4065
東急東横線学芸大学駅より徒歩12分 世田谷区下馬6-43-5

words:沢山遼

2007-10-20 at 05:11 午後 in 展覧会レポート | Permalink

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