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2003/11/06
川島亮子展
「措定のプロセス」
「GE'SELLSCHAFT」
■例えば、部屋にある本や、よく通り過ぎる道沿いの建物。私たちは普段見ている沢山のものの存在にいちいち意識を向けたりはしない。ものの存在に固執せずにいられることは生活するのにも有効だろう。しかし、川島亮子さんの作品は、日常生活で知覚によってものの存在をいちいち想定しないこの習性や、措定しないように働く「自分の眼」をあえて意識させる。
■会場の彌右衛門画廊は、ギャラリーの多い地域からは少し離れた場所にあるが、京都にある他のギャラリーとは違いかなり広い。1階のスペースの、重力に抵抗して吊り下がっている物体と、重力に従ってずしりと地面に立つ対照的なふたつ。天井から吊り下げられている十字の柱状の作品は、底面からライトの光が射している。空間自体が大きいせいか会場では、作品にそれほど巨大な印象を持たなかったほどだが、搬入はトレーラーだったのだそう。どちらの素材もコンクリートで、かなりの重量がある。この建物のような場所でないと出来ないインスタレーションだ。
■2階奥のスペースにある、四角形の非対称な形の大きなプレート状の作品には、黒い蝶のような図像が見える。この作品は、全部で5層の構造になっている。一番上の半透明のポリプロピレンのプレートの下から透けて見えるこのシルエットはフィルムにインクで描かれていて、近付いてよく見ると、手作業で描かれた痕跡もわかる。本当にこれが蝶なのかどうかは分からない。しかし、この形を見て蝶だとイメージするのは、自分の記憶にこの形をとどめているからだ。
■ホワイトキューブになっている空間の奥では、ビデオプロジェクターの映像が、水の入った宙づりのFRPの器をフィルターにして床にゆらゆらと映っていた。水が流れるせせらぎのような音も聞こえて、床面に映る色も光の加減も少しずつ変化する。映像のフィルターとなっているFRPの器は、日常、ものの存在に無関心になれる知覚の働きと同じだと思った。眼というフィルターを介して理解したものは普段気にもとめないものになる。けれど、それは何か小さなきっかけで、予期せず、それまでとは違う意味に変わってしまう場合がある。
■私たちが普段目にする沢山のものの存在に無関心でいられるのは、それらの存在を意味や記号、機能と捉えて理解しているからだ。しかし、ふとした行為で、それまでの感覚を裏切られるのに直面した時、ものをひとつの意味と捉えていた自分の知覚の不確かさにも意識が集中していく。私たちは「私」と「存在」の間に起こる措定のプロセスを繰り返しながら、ものの存在を確認したり、自分の知覚を確認しているのだと思った。
川島亮子展
2003年11月6日(木)〜12月16日(火)
彌右衛門画廊
京都市右京区西院西田町13
(阪急京都線西京極下車徒歩7分、または市バス・京都バス光華女子学園前下車徒歩4分)
13:00〜19:00
入場無料
TEL.075-311-2217
「GE'SELLSCHAFT」
「asymmetry-失語(的)のasymmetry-aphasic」
「anaphylaxie」
2003-11-06 at 12:26 午後 in 展覧会レポート | Permalink
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