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2008/07/24
大正の鬼才 河野通勢
松濤美術館で開催された、河野道勢(こうのみちせい、1895〜1950)展は、東京・小金井のアトリエに残されていた膨大な量の新出資料の発見を発端とするものだという。それは、今までこのような規模で通史的にこの画家を回顧することができなかっただけに、近代の日本美術史に興味をもつ者なら必見の内容だったに違いない。なかでも特に目を引いたのは今回出品された故郷の長野県、裾花川の風景を描写した油彩とスケッチによる作品群である。
上)裾花川の河柳 1915年 長野県信濃美術館
10代の後半の1914年から1916年までの3年間継続されたこの連作風景画は、多くのスケッチと平行して制作されている。ここでの河野の油彩画のテーマは、スケッチとの平行関係を考え併せれば明快なものだろう。つまり彼の風景画の主題は、線描によって描かれる草木の描写をいかにして油彩画のマチエールに転写してゆくかというものだったといっていい。事実、この時期の彼の油彩は、草木のうねるような描写を、すべての画面で徹底させているのである。そして本展の出品作でもある1915年の自画像の髪の毛、1916年の『三人の乞食』でのきれぎれに伸びる雲の輪郭に、この描写がたしかに延長されているのが確認されるだろう。
左)隠田風景 1914年10月2日
これらの参照項として挙げるべきは、おそらくはデューラーなどの北方ルネサンスの画家の存在である。画家でもあった父の次郎は、丸善から取り寄せた洋画集やコワンズ社の『Drawing From the Old Masters』などを蔵書していた。河野はこうした父の蔵書から、おそらくルネサンスの画家に通じていたのだろう。そして、まさしくデューラーこそは、エングレービングの技法を画家としてほぼ初めて本格的に行なったのであり、それをすばやく油彩による描写に応用した画家なのだった。線によって油彩を描くという捩じれたコンセプトは、デューラーによって創始されたのである。
ところで、河野が草木のうねる線描を油彩で完成させた1915年というこの年号は、筆者に少なからず驚きを与えるものだった。というのは、河野の盟友だった岸田劉生もまた1915年に、たとえば『切り通しの写生(道路と土手と塀)』などの開発途上の代々木の風景画において、道路や塀などの人工物の堅牢な描写と、樹木や草における多方向に曲がりくねる線描的描写を併用していた。この、空気の渦を含みながら展開する流動的な自然描写は、河野のそれと比較すれば酷似しているというべきだろう。
岸田の場合も、アルトドルファーなどを思わせるこの草木の描写は北方ルネサンスに由来するものだった。彼は触覚的なマチエールを実践するための人工物で構成された部分を「写実」と呼び、草や木など装飾的な筆触を可能にする部分を「装飾」と呼んだ。そして、その両者を統合させることを一連の代々木の連作の主題としていたのだ。したがって、岸田がデューラーの感化を受けたのは、よく誤解されているように、単にその写実性からだけではなかった。デューラーは、髪の毛や衣服の描写に、彼以前のファン・アイクや末期ゴシック美術にあった北方ルネサンスの装飾的感性を残存させていたのである。つまりデューラーは写実と装飾の2つの要素を様式的に調停したのであり、岸田にとってデューラーが強大な規範になったのはそのためだった。
しかし正確に言えば、岸田の「切り通し」にも見られるこの線的文様は、大振りな描き方ではあるもの、1914年から実践され始めたため、河野の方が少しだけだが先行している。一方で岸田が「クラシックの感化」から、マンテーニャやデューラーを参照し始めたのは1915年からのことだった。つまりここでの両者の影響関係を推測するとすれば、1915年の時点で、岸田が河野の絵をすでに知っていたということである。
けれども事実は(もちろん)そうではなかった。河野が初めて代々木の岸田劉生を訪ねたとき、まさに劉生は「切り通しの写生」を仕上げている最中だったのである。だから、ここで考えられ得る残された可能性はひとつしかない。岸田と河野は、まさに同じときに、まずしい白黒図版から得るほかなかった北方ルネサンスの形式性を正確に見極め、「線描の油彩による転用」というデューラー的主題を共に実践していたのである。
河野のデューラー受容は資料的には少なくとも1915年にまで遡ることができる。関根正二が信州を旅しているとき、河野を訪ねてきた関根に、彼はダ・ヴィンチやデューラーなどの図版や素描などを見せ、その作品について語ったという。若き関根の作風が変化するのは、このときの経験を通じてのことだったとされている。河野および河野から見せられた図版の感化が関根の線描の展開と宗教性への指向にあったことは、共に十代の少年に過ぎなかった彼らがそのとき何を共有するに至ったのかを示すだろう。
劉生と河野の間には草土社を通じた一方的な影響関係があったとする見方は修正するべきなのかもしれない。つまりは彼らを結びつけたのは、明確に意識されたコンセプトではなく、むしろ絵画史的な偶然だった。そのとき両者の間にあったのは、なにか似たようなことが共有されているという、漠然とした感覚だったのかもしれない。
彼ら2人を含む草土社の細密描写が、速水御舟や土田麦僊をはじめとした日本画家にまで及ぶ大正期の画家たちへ広範な影響力を誇ったことにも由来して、河野と岸田は細密な写実表現への関心によって接近したとされるのが一般的な理解である。しかしそれは事実とは異なる可能性があることは確認されてよいだろう。その逆に、彼らはむしろ装飾的(線的)感性によって結束したのである。2人のこの秘教めいたデューラー信仰が、雑誌『白樺』にまで伝搬するのは、その少し後のことだった。
大正の鬼才 河野通勢
2008年6月3日〜7月21日
渋谷区立松濤美術館
words:沢山遼
2008-07-24 at 05:04 午後 | Permalink
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コメント
速水御舟 度々来館し館主との親交は深い。はじめまして!・・・お疲れ様です。 1/9書き:修善寺の温泉地:【新井旅館への通勤が厳しいが!?】。第一期ニート時代でしたが早速、由緒ある新井旅館に内定しましたが、通勤メチャ厳しい!【サラリーマン編】 、面白い画像も存分に楽しんで見て下さい。コメント等いただけたら幸いです。自分の【学生編】当過去ブログにも、当時の写真・面白い・可愛い・画像・動画ありますので、時あれば、楽しんで見てやって下さい。
投稿情報: 智太郎 | 2009/01/11 14:56:37